例えば、名古屋と東京でマクドナルドにいる時間は、
同じ1時間であるが、当然、遠方に出かけているという意味で、
東京のほうが慌ただしく感じやすい。

しかし、感覚の問題で絶対的な時間の進みなどは一緒と考えて良い。

充実していれば時間の流れは早くなる。
逆もまたしかり。

冷静に考えれば、これが逆にもなる。
つまり、東京の人が名古屋に来てということだ。

そして、ここから次のステップへ。

つまり、東京に住めばそこが日常化して、慣れる。
人も、情報も、やり方?もそんな感じで。

日常化すれば、憧れや期待は溶け込み、
例えば、ぼーと過ごすことも可能だし、そういったことをしている。
考える時間が田舎にはあって、都会にはないということもない。
時間の使い方は、環境に規定される、ならば、それを作り出せばいい。
引きこもるのもいいが、田舎で引きこもりはなくて、単に娯楽がないからだろう。
馬鹿にしているのではない。

都会の機能は情報や娯楽などの集中、蓄積、便利などがあり、
そこにいるということは、ある種社交であって、何か夢や希望、
こういうことをしたい、人とつながる、何かしたい、店をやりたい、
そういったものがあっての前提ではないかと思う。

暗にそれがあるから、東京へいきたい、都会へいきたい、
そうなるのではないかと。

だからこそ、人口比では数倍5倍はあるところでは、
5倍の単価になるか、または5倍の人件費、5倍のコストになるか。
いや、そこまではなってない。

なぜなら人口に比例した、店の数、人の数がいるので、
結局、マクドナルドの数は2倍3倍くらいあっても、働く人は2倍3倍で、
利用する人も2倍3倍であって、というだけで良い感じの数値で
キリがつくのだろうと。経済的に考えれば。

でも、心理的には、人が多いと、どこにいても、誰かがいるというような
妙な感覚に陥る。

環境が時間を規定するなら、この物理的な数値よりも、
実際に感じる主観、心理的な面、集団や他の人との兼ね合いのほうが
重要な気がしてくる。

まあ、分からないなりに考えてみた結果がこんな感じであるわけで。